2017年12月1日で空の境界は10周年です。
そのメモリアル一挙上映会がテアトル新宿で開催され行ってきました。
小説版20周年を迎え、コミックマーケットで発表以来、講談社からの出版、漫画やコラボ、新たな書き下ろしストーリーなど様々なメディア露出をしたもののその難解な世界観からアニメ化の話しはなく、Fateより世間に認知されていませんでした。
今回は世間に認知されるきっかけとなった記念すべき第一章の紹介です。空の境界世界観、人物紹介の詳細については別の記事でご紹介します。
既に10年前に観賞した人もTYPE-MOON作品やufotableの作品に興味を持った人も必見です。
第一章「俯瞰風景」
第一章、原作者の奈須きのこ氏が最も映像化が難しいといっていた章で大事な最初の映像化だけによく映像化に踏み切ったなと思う作品です。
映像技術の進歩でこれからはどんな表現も可能になるので「映像化出来ない表現!活字の力を信じて執筆しました!」とかっこいいことも言えなくなりますね。
それだけアニメ業界の映像技術の進化は凄まじいです。表現できないのは自主規制ぐらいですかね。
見せられないよ!
私も第一章がよく理解できず、何度も読み返したのでさっぱり次の章に進まなかった当時学生だった時のことを思い出します。
実際に劇場版を見た後でもその難解な構成に悪戦苦闘しました。
第一章は時系列的にはある程度出会いも済ませてキャラクターの関係性が出来上がった時期のお話。
俯瞰風景は第一章というだけあって難読な内容を演出の魅力で登場人物の人となりがわかる内容となっています。
第一章で私が衝撃を受けたのは内容ではなく、その「映像演出へのこだわり」です。
映像美、作画力もさることながら目を引くのが闇での光の風景表現です。
のちのufotableの作品でもよく見ることになりますが、当時は衝撃的で私はufotableの魅力にすっかりのめり込んでしまい後の作品も欠かさずチェックするようになりました。
すっかりファンになってしまったのです。
暗闇でのキャラクターの心情表現、街がまるで生きているようにキャラクターに呼応して光を放つ表現が隅々まで行き届いています。
アニメで高尚な空の境界様を表現できるのかと粗探しをするも非の打ち所がない、私に非が打ち付けられる形となったのです。
夕方から深夜にかけての表現は圧巻です。
それだけに日中の屋外映像のギャップが激しすぎて見劣りがちになってしまいます。
決して悪いというわけではなく、あまりにも闇から光の表現が今までの常識を覆す映像だったのでということです。
世界観の中心にいる本作
1998年9月、物語は「黒桐幹也」が「両儀式」の住むマンションに訪れるところから始まります。
式の家に度々訪れる幹也は鍵が施錠されていないことを知りつつもインターホンを押し式の出迎え待っている。
式は気にせず勝手に入って来いというが幹也は礼儀なのか式が出迎えるまでは待っていてそんな式に鍵をかけるように女の子なんだからと言い聞かせる。
この会話だけでも二人の関係性や演じている人間性がわかるやり取りです。
勝手に入ってきていいという程の付き合いの間柄。
そんながさつな振る舞いに対してあくまで女の子扱いする幹也。
式の性格については後のお話のネタバレになってしまうので後の章での感想で記述したいと思います(追記します)。
この辺が時代背景的で現代っ子の幹也は鍵っ子のため施錠の有無にこだわり、旧家で育った式には鍵は夜以外施錠しないのが普通なのでしょう。
第一章での式は男性のような性格であるが、身なりは非常に女性らしいというよりかはお嬢様のように普段着が着物である浮世離れした女性です。
幹也はそれでも式を女性扱いするのは単にジェントルマンなのか女たらしなのか…とにかく式を深く知る人物であることが伺えます。
この二人の関係性が本作全体のテーマでもあり、キーポイントでもあります。
幹也が訪れた際に式に差し入れされたハーゲンダッツストロベリー味は現実にも存在したためキャンペーンや話題になるたびに食したり、イベントで配られたりしました。
その際イメージの比較として幹也がつぶやいたのが式の真っ赤な革ジャン。
着物に革ジャン、ブーツは非常に特徴的なデザインで両儀式というキャラを印象づける要素となりました。
黒桐幹也と式は伽藍の堂という魔術師で人形師である「蒼崎燈子」が経営する事務所に出入りしている。
幹也は燈子の助手として主に捜索・調査などを担当。
式は燈子の手足として対象の殲滅など汚れ仕事を請け負う。
第一章のキーワード「巫条ビルからの投身自殺」である。
次々と少女たちが巫条ビルから自殺する事件が続出、少女たち同士の関連性は不明であるため世間では事件は迷宮入り直前。
しかし、燈子や式のように魔術などの異端に触れるものからは魔的なものが原因であることを予測している。
魔的って便利な言葉ですよね。よくわからないものに対して「魔的だ」と呟くだけで諦めがつきそうです。
幹也の意識が何者かに奪われたままの原因として関係があると踏んだのであろう。
世間で認知できない自殺事件の原因と原因不明の幹也の魂の浮遊。
「両方浮世離れした現象は関連性として世間では異端の現象という関連性がある」ととらえたのであろう。
式は幹也を煙たがるも心のよりどころとしており、幹也を失う恐怖がこみ上げてくる描写がある。
そのことから式は巫条ビルの調査に乗り出す。
式が巫条ビルに訪れるとまた少女の投身自殺が発生、ビル内へと足を踏み入れる。
ビル内は少女の怨念のようなものがこだまする。
その刹那、式の左腕はコントロールは奪われ幾度となく地面や壁に打ち付けられる。
まるで念動力で操られたかのように。
なんとか左腕を動かなくしようと式は手持ちのナイフで左手を刺して身動きが取れないようにするが動きは止まらず、最終的に左腕を切り落とす形となり事なきを得た。
「聞き腕を狙わない優しさ…」
左腕は幸い義手(別章で理由は語られる)であるため人形師の燈子にスペアを用意してもらい再度巫条ビルに潜入し屋上へと移動する式。
義手であるため幽霊には魔術的な何か操りやすい要素があったため左腕を操ったんですかね?
解釈としてはどうとでも取れますが敵は最初遊ぶからな…
さあここからです。ここからが本作の山場であり私自身一気に引き込まれたシーンでした。
事件の原因は「巫条霧絵」巫条ビルのオーナーの娘であり現在は病院で寝たきりの生活を行っている。
家族は巫条霧絵既に他界している。
そんな彼女がなぜこの巫条ビルに存在するのかというと、彼女は「二重身体」の持ち主であるからです。
巫条ビルにいる彼女は「霊体」であり、病院に存在する彼女は「本体」である。
正に彼女は意識は一つだが体を二つ手に入れた異端な存在となっていたのです。
二重身体っていう考え面白いですよね。しかもあえて本体は自ら自由に動けない体という設定がより一層霊体という自由な体を手に入れた高揚感と狂気が伝わってきます。
「亜人」という作品にも似た設定がありますね。自分の意識でコントロールする第二の身体というよりかは操り人形のようなもの。
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式は幹也の魂を取り戻すために巫条霧絵との戦闘を開始します。
巫条霧絵の周りには今まで自殺した少女たちの霊体が取り巻きますが、霊体にもかかわらず式はナイフ一本で霊体を次々と消滅させていきます。
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両義式というキャラクターは万物の死が見えるという「直死の魔眼」の持ち主で存在するものであれば鉄筋だろうと空気だろうと霊体であろうと関係なく切ったり殺すことができる。
TYPE-MOONファンであれば「月姫」という作品に同じように「直死の魔眼」を持ったキャラクターが登場することは御存じでしょう。
巫条霧絵は少女たちへ行ってきたように式にも暗示をかけようとするが式には効果がなかった。
それに脅威を感じた巫条霧絵は隣のビルに移動するが式もビルからビルへと飛び移る。
ビルからビルへの飛び移りの際式は左腕で着地するが腕は壊れない。
なぜなら燈子にスペアの義手に交換してもらう際に「像が踏んでも壊れない」が謳い文句の義手に取り換えてもらったからである。
燈子さんは見た目凄く若く見えるが思考は「おばさん臭く」ある。おばさんとは言ってないよ!
またその義手は霊体に触れることもできるため逃がさないとばかりに式は巫条霧絵の首元を掴む。ダースベイダーのように。
恐怖は限界まで来るとその恐怖を上回り、狂気となる。
巫条霧絵は叫ぶ「落ちろ!落ちろー!!」。
悲痛な叫びにも似た最後のあがきは当然式には通用せず、「お前が落ちろ」と一言心臓付近を一刺し。
そして呟いた一言「百合だ」は原作だといまいち想像できなかったのですが、映像化で表現の全貌がはっきりするのもアニメの魅力です。
百合は巫条霧絵の墜落の際のワンピースの揺らめきが百合のように見えたため漏れた一言だとわかります。
本作映像化にあたって魔的なものの表現は狂気ながらとても美しく表現されています。
巫条霧絵はその瞬間、衝撃的な死を体験し病院の床の本体が目を覚ます。
生きながらにして死の衝撃を体験した巫条霧絵。
それは彼女のような二つの体を持っていながらでしか認識、心に留めておくことができない圧倒的な生の鼓動。
生きながら死んだ体験って臨死体験とも違う、死んだという明確な一つを体験などできないものを表現しようとする。
それが奈須きのこの言う活字の力なのでしょう。
病院のベットで意識が本体に戻った彼女の元に燈子が現れる。
彼女は燈子の気配に気づくが視線はどこか宙を泳いでいる。
彼女は目が見えないのだ。
彼女の起源は「虚無」。目の代わりにもう一つの体を得て巫条ビルから俯瞰した風景を眺めていたのだ。
起源も物語のキーワードであり人間のものであって人間とは程遠い。
人間にできるが認識はできない。
俯瞰風景はその一つである。
個人的に第一章の名言はここで飛び出します。
巫条霧絵の身を案じたか、それとも選択肢を与えたのかわからないが燈子は巫条霧絵にこう論す。
「背負った罪によって道を選ぶのではなく、選んだ道で罪を背負うべきだからだ」と。
私は死を選びつつある巫条霧絵を察して幾度となく少女たちを自殺に追い込んだ罪を背負って死を選ぶのではなく、「飛びたい、誰かにこの自由のない病院の床から連れ出してほしい」という願望の選んだ先に自殺に追い込んでしまったのであれば、選んだ道を進みながら罪を背負え。
「生きろ」と燈子さんなりの優しさだと感じました。しかし、あえて選択肢として回りくどく論したのは、生きてても辛い現実は変わらない、そう感じたのでしょう。
彼女の願いは叶わない、支える家族もいない。
彼女はどちらを選択したかは作品を見るか、考察してみてください。
皆さんはどちらが彼女の幸せだと思いますか?
まとめ
第一章はキャラクターの紹介と活字では伝わりにくかった表現をアクションシーンやセリフと共に映像で表現されていたので新規、古参のファンの方々にも自信をもっておすすめできる作品となっています。
音楽は「梶浦由記」、主題歌・挿入歌は「kalafina(カラフィナ)」が担当。今でこそ超有名な方々ですが、kalafinaはこの劇場版で一躍注目を浴び、のちのTYPE-MOONやufotableの作品の歌を数多く担当しています。本作は音楽が映像と作品のシンクロを高める重要な要因となっていました。
これで音楽が梶浦由記さんが担当されなかったらどうなっていたか。
大げさな話しではなく緊張感もなくしらける、映像化するべきであったかすら疑問が残る。
それぐらい音楽の力で作品の魅力を底上げしています。名曲が各章ごとに誕生していったのです。
本作の私なりに感じたこと考察は以上ですが、この作品は十人十色の考察、感じるものがまるで違ってくる作品です。
ぜひ、みなさんご自身の目や耳で感じ作品の魅力を味わっていただくことを強くおすすめします。
個人的に第一章が映像、話し、構成、音楽が一番好きな作品です。
余談ですがあまりに好きなので「俯瞰風景3D」も見に行き、その際いただいた式の色紙は宝物です。
3Dの感想としては浮き上がる感覚があまりなく、そんなに映像の恩恵は受けていない印象でした。3DSぐらいの衝撃はあります。
それでは次もね~